●1月4日 「歌ヲ唄フ」







新年、明けましておめでとうございます!


今回は真面目な話です。






去年の末になるが、「歌」について知人と深く話したことがあった。

彼は言った。





「世界共通のものは、光、歌、言葉である」と。





私は深い感銘を受け、彼の言葉に真剣に聴き入った。




歌は本来、祭に使われていた儀式や呪術の類であったとされている。


皆さんも、メディア媒体を通じて様々な「歌」と出会っただろう。

歌詞、メロディー、技術、センス、

様々なものに心を打たれたこともあると思う。





同じ言葉でも、言う人によってその重みが違う。

その人の雰囲気に後押しされて出る言葉だから、単純に深く重く感じるだけかもしれないが、

その深さや重さが、何故、音である言葉に宿るのか?



ここで超自然力について語るつもりはないが、

私は「言霊(ことだま)」という存在を信じている。





自分は歌を創れないし、曲も起こすことができない。

故に、ここで表記される全ての文を、歌無き歌として刻みたい。

詩ではない。私は音の無い歌としてここに刻みたい。

















少し前、私はアフリカ出身の2人の留学生と話す機会があった。

その2人を紹介してくれた別の外国人の友人とともに、
彼らの家にお邪魔したときのことである。








彼らの部屋は、たぶんこれを読んでいる皆さんがアフリカと聞き、思い描くような
民族的な仮面や楽器、不思議なオブジェで溢れかえっていた。



皆日本語が堪能で、コミュニケーションに不自由することはあまりなかった。



彼らの国の自然や、人々の考え方などを貪欲に質問する私に、
彼らは笑顔で答えてくれた。




彼らの国の話。

彼らの住んでいた街の話。

彼らの信じる精霊の話。




彼らの話には、不思議と既視感を覚えた。



日本古来の思想、「八百万の神」の考え方ととてもよく似ているのだ。



ここで彼らから聴いた話を深く述べたいが、それはまた次の機会とさせてもらう。






話も一通り終わると、私は彼らにお礼にと、とある歌を披露することにした。



以前も「つぶやき」で書いたことのある、平沢 進氏の歌である。



異様に難解な歌詞、そしてまるで脳に染み込むような旋律。
氏の歌は聴く、というよりは、イメージして感じ取る歌だと、私は思う。

故に、下手な土産よりも、この音楽の方が彼らに受け止めてもらえるのでは、という
独り善がりの考えからのものであった。




一緒に来ていた外国人の友人も私と同じく平沢 進氏のファンなので、
2人で『RIDE THE BLUE LIMBO』という歌を披露した。





アフリカからの留学生の2人は、日本語は分かるものの、
日本語の歌まではまだよく分からないらしかった。











私たちが歌っている間、1人はずっと目をつむって、瞑想するように聴いてくれていた。




もう1人は、曲半ばから、私たちをまっすぐ見つめたまま、ずっと泣いていた。






彼らの姿を見て、恥かしながら、歌っていた私たち2人も何故か感動して泣き出してしまった。






あの日、私は確かに言霊を見た。

歌を見る目が、大きく変わった。

重さ…深さ…

分かるようになった、とは言わない。恐れ多いから。


ただ、ほんの少しだけ、感じ取れるようになった気がする。











夜が明けるように、当たり前のように居る歌は、
モノクロームの世界を日が射して色づくように染める。


旋律と歌唱は、キミの胸になにを映す?

醜くとも美しくとも、そはあなた自身の万象。





「イメージせよ。世界は、その通りだ」












何も無い程に埋め尽くす街を見た
道の上 キミだけが ああ虚無を抱いて泣いた

「見えない」と誰かの声がエコーすれば
乱舞する 帰らない 良き夢の名は無数

連綿と来る 朗報の遥かへと
応答の歌を 思いだして


RIDE THE BLUE LIMBO ハイヤイヨー
孤児のように強く

RIDE THE BLUE LIMBO ハイヤイヨー
迷子らしく 求め

RIDE THE BLUE LIMBO ハイヤイヨー
誰ひとり落すな

RIDE THE BLUE LIMBO なおもまだ
人らしく勤め



                                            平沢 進 『RIDE THE BLUE LIMBO』








この音無き歌と我が思いを

亡き友、Kに捧げます。









平沢 進 公式サイト
http://www.chaosunion.com/WORLDCELL/






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